『マウストラップ(ねずみとり)』や『検察側の証人(情婦)』『そして誰もいなくなった』などの戯曲、そして数々の推理小説で知られるミステリーの女王アガサ・クリスティー。
実は彼女はその生涯に六冊だけ、推理小説ではない小説を、メアリー・ウェストマコットというペンネームで書いています。そして、その一冊が1944年にシェイクスピアの十四行詩から題名を取った「春にして君を離れ」であり、それ故、幻の名作と呼ばれる由縁でもあります。
この小説には探偵も犯人も登場しません。もちろん殺人事件も起こりません。代わりに剥がされて行くのは“人の心のヴェール”、それも、もしかしたら自分ととてもよく似ているかも知れない、ごく普通の人の心です。
アガサ・クリスティーはこの作品に関して「このテーマは何年もの間、心の中で追い続けてきたものですが、仕事に掛かると一週間で書き上げて精も根も尽き果ててベッドに入り、一語も訂正せずにそのまま出版しました。」と語っています。
「私が100%満足している唯一の本」と彼女自身も明言する、文字通り渾身の作であるこの小説を初めて舞台化するにあたり、演出・脚本を担当するのは、テレビ・映画・舞台で俳優として活躍する傍ら、シェイクスピアの戯曲を題材にした舞台や、アガサ・クリスティー作『ねずみとり』などの演出で鮮烈な人間ドラマを浮かびあがらせた大和田伸也さん。
その大和田さんを始め、出演者が揃っての製作発表会見が10月末に博品館劇場にて行われ、それぞれが、この作品に挑む意気込みなどを語りました。
最初に大和田さんから演出家として「昨年の『ねずみとり』に続き、アガサ・クリスティーを演りたいと探して、幻の名作といわれるこの本に巡り遭いました。まだ世界の何処でも舞台化されていないこと、題名がシェイクスピアの十四行詩から採られていることなどが気に入ってこれをやりたいと思いました。原作は殆どが一人の女性の一人称で、心の動き、思い、想像、想い出が描かれており、舞台化・脚本化するのは面白い作業でした。」と、この作品の上演に至る経緯を語ります。
さらに、「なによりも気に入ったのは、殺人よりももっと怖い、人の心のミステリーとも言うべき面白さです。一人の主婦が子育てが終わり、幸せだと思っている時に砂漠に取り残されて「自分の人生は幸せか?」「周囲の人たちを幸せにしてきたか?」という疑問を持ちます。その思いが深まって自分自身も周りも怖くなっていく・・・という現実的で本当に怖い物語ですが、最終的には心温まる、人と人との関わり合いの素晴らしさ、暖かさを感じて欲しいです。
ファンタスティックな場面も、あっと驚く場面も、笑いも涙も有りますし、最終的には感動していただけると思います。」と、自信を覗かせます。
その大和田さんが「原作を読んで最初にイメージした」という主役の主婦ジョーンを演じる多岐川裕美さん。過去、現在、想像、妄想など色々なパターンを演じるということで、「稽古が佳境ですが、長台詞が大変で、呑むと忘れそうなのでお酒も控えています。翻訳劇は二度目ですが、前回も博品館劇場で台詞に苦しみました(笑)。詳しい内容はお話出来ませんし、深層心理劇は演ったことがないのですが、人の心をくすぐる作品だと思います。」と、この舞台にかける意気込みは相当な様子。
「性格が両極端な二役を演じて貰うのが見どころですが、それには理由があるんです。」と大和田さんに紹介された東てる美さん。
「翻訳劇は30年演っていて初めてで、しかもクリスティーの心のミステリーということで、憧れていたので嬉しいですね。普段は世俗的な役柄を演っているので、台詞を喋るだけではなく、行間を読み、行間で芝居をして、裏の意味を上手く表現して、観ている方にしっかりと伝えたいです。お客様が入ると、また空気が変わるのではないかと自分でも楽しみにしています。」と、こちらも意欲満々のコメント。
また、今回の舞台には、二世俳優と呼ばれる以下の3人の方々が揃って出演されるというのも大きな話題のひとつ。
勝野洋さん・キャシー中島さんの次女、勝野雅奈恵さん。
里見浩太朗さんの長男である佐野圭亮さん。
大和田伸也さん、五大路子さんの長男、大和田悠太さん。
「初舞台は昨年の大和田さん演出の『ねずみとり』でしたので、また御一緒できて幸せです。原作を読んで怖いと思いましたけれど、稽古をしていると怖いだけでなく暖かいものを感じる怖さですね。頑張りたいし、楽しい作品になると思います。」(勝野さん)
「クリスティーの芝居は2回目、大和田さんの演出は初めてですが、普段は時代劇が多くて舞台の上で洋服を着ることが少ないので勉強になっています。大和田さんの解りやすい説明、きっちりとした稽古で、作品の流れや、中でどういう役割かが解ってきました。自分の役者人生で、一つ引出しを増やして、後々に振り返って語れる作品にしたいですね。」(佐野さん)
「初めての大きな舞台ですが、難しいですね。原作に衝撃を受けているので、舞台ではどうなるのか、緊張感でワクワクドキドキしています。実の父の息子役ですが、舞台での共演は初めて、演出を受けるのも初めてなので、緊張していますが勉強しながら精一杯演りたいです。」(大和田さん)
とそれぞれにフレッシュなコメントを語りました。
他には、三役を演られるという田村連さん、佐倉ゆうみさん、そして大和田伸也さんも出演されるこの舞台。
公演は大和田さんの出身地である、福井県・敦賀市で11月6日よりスタート。さらに歌唱に同じく敦賀市生まれのテノール歌手・吉田浩之さん、振付に三代真史ジャズ舞踊団を率いる三代真史さん、劇中に使用される能面の製作に福井県池田町の能面美術館など、福井県出身のスタッフを揃え、福井発の新しい文化もうたって行きたいと意欲を見せます。
誰もが自分の身に置き換えて、心の奥を感じずにはいられないという、アガサ・クリスティーが全身全霊を掛けて書いた渾身の一作。
世界初の舞台化は、観客の心を直撃する衝撃のステージとなりそうです。